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ウルフ家の呪い

ウルフ家の呪い

裏切り者ベイル

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ウルフ家の呪い

裏切り者ベイル

焚き火の柔らかな炎が、粗末な野営地を淡い橙色に照らしていた。夜の闇に浮かぶその光の中で、二人の兄弟の影が揺れている。弟は寝袋の中で静かに寝息を立て、兄は無言のまま見張りを続けていた。薪がはぜる乾いた音、秋の木々を渡る風の音、虫の微かな鳴き声だけが静けさを満たしている。

こんな平和な時間は、ここ数年でほとんどなかった。ベイルは炎を見つめながら、固く険しい表情の奥でわずかな微笑みを浮かべた。弟の落ち着いた呼吸を見るだけで、心のどこかに温かいものが灯る。

この五年間、二人は逃亡者として生きてきた。ある町の外れから別の町へ、長くても数週間しか同じ場所にはいられない。見つかる危険を避けるためだ。その現実を思うと胸の奥が苦く沈んだが、それでも今だけは静けさに身を委ねていたいと思った。

ザクッ。

小さな異音が夜の空気を裂いた。

ベイルの意識が一瞬で研ぎ澄まされる。頭を巡らせて音のした方向を探り、木々の影が揺れるのを見る。反射的に手は腰の剣に伸び、静かに抜刀して身を低く構えた。

守る。それが彼の唯一の誓いだった。

暗闇の中に二つの光が浮かぶ。息を潜めて様子をうかがうと、それは鹿の瞳だったとわかる。安堵と同時に脱力したような苛立ちがこみ上げた。ベイルは剣先を土に突き、息を吐く。

ヒュッ。

その瞬間、思考より先に本能が動いた。

シュッ。

矢が飛来し、彼の顔のすぐ横をかすめて背後の木に突き刺さった。

ベイルは即座に叫んだ。

「ウィル!」

闇の中に潜む敵へ視線を向けながら、剣を引き抜き構え直す。

同時に寝ている弟のもとへ走り出した。

「起きろ!動け!」

一拍遅れてウィルが目を覚まし、混乱しながら身を起こそうとする。

ベイルは足元の土を蹴り上げ、焚き火にかぶせた。火は一瞬にして消え、闇が野営地を飲み込む。

心臓の鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。

静寂。だが確かに、暗闇の向こうから砂利を踏みしめる小さな足音が近づいてくる。

何人だ?距離は?方向は?

耳を澄ませば澄ますほど情報が増え、同時に嫌な予感が広がっていく。

数が多い。

こちらの位置は完全に割れている。

ベイルが歯を食いしばったその時、背中のマントが引かれた。振り向くと、そこには短剣を構えたウィルの姿があった。怯えはあるが、それ以上に覚悟が宿った表情だった。

ウィルはうなずいた。

「一緒に行くよ」という意思表示だった。

ベイルは深く息を吸い、弟にうなずき返す。

二人は闇の中へ身を低く滑らせると、音を殺しながら茂みを抜けた。

頭上をかすめて矢が飛んでいく。方向は外れた。敵は二人を見失っているようだった。

今が唯一のチャンスだった。

やがて北側の出口に通じる細道にたどり着く。しかしそこには二人の兵士が立ち塞がっていた。

ベイルはウィルの肩を押さえ、茂みの陰で様子をうかがう。

様子がおかしい。

兵士たちは前かがみに体を折り、首は不自然に傾いていた。剣はだらりと垂れ下がり、刃は地面を引きずっている。足取りは遅く重く、口からは呻き声のような音が漏れている。

ベイルは祈るような気持ちで目を伏せた。

鎧に刻まれた紋章を見てしまったからだ。アシュラー家の紋章だった。

ウィルに気づかれる前に片を付けなければ。

ベイルが振り返るとウィルもすでに察していた。瞳に迷いはなかった。

短剣を握り、命を託すように強くうなずく。

二人は同時に動いた。

茂みの影から飛び出し、兵士の口を押さえ込み、喉を一閃で切り裂く。

声を上げる間もなかった。

ベイルは掴んでいた兵士の体が崩れ落ちるのを確認し、すぐにウィルの方を見る。

弟は静かな表情で兵士の体を地面に横たえた。

あの臆病だった少年はもういない。荒れ果てた逃亡の中で、彼もまた鍛えられてきたのだ。

二人は無言のまま前進した。

言葉を交わすことなく、兄弟は進み続けた。背後からは遠く金属の擦れるような音が聞こえてきた。きっと兵士たちが捨ててきた野営地を見つけたのだろう。わずかな物資を失うのは痛手だが、銀貨ならまた手に入る。だが命は取り戻せない。

長い時間、二人は静かに慎重に森を進んだ。木々を揺らす風の音と草を踏む音が、彼らの足音をかき消してくれた。ベイルは逃亡を始めてからの数日で、森の地形を頭に叩き込んでいた。どこへ逃げられるのか、どこが危険か、どこが袋小路になるのか。戦いを避けること、それが彼の最優先だった。その結果、遠回りの道を進むしかなかったが、無謀よりはましだった。先ほど倒した兵士の遺体が見つからないことを願うばかりだった。もしそうなれば、増援が押し寄せてくる。

やがて茂みが薄くなり、遮るものがほとんどない開けた場所に出た。ベイルは歩みを緩め、背後を振り返りながら慎重に気配を探った。先ほどまで森の中に満ちていた気配が消えている。それが逆に不穏だった。胸の奥の警鐘は鳴り止まない。

静寂が支配していた。鎧の擦れる音もしなければ、草木のざわめきもない。虫の声すら消えていた。自然の音がすべて奪われたような、不吉な静けさだけが漂っている。

ウィルがベイルの隣に立ち、兄と同じ方向に視線を向けた。

「まさか…やり過ごせたのか?」小声でつぶやく。握りしめていた短剣から力が抜け、指先に血の気が戻っていく。

安心させたい。ベイルはそう思った。追手の気配は消えた。確かにそう思える状況でもあった。深く息を吐き、剣を下げ、弟に向けてうなずいた。

そのわずかな安心は、一瞬で消えた。隣を見ると、ウィルが笑みを浮かべたまま硬直していた。まるで、その瞬間だけ時間が止まってしまったかのように。

「ウィル!」

ベイルは弟のもとに駆け寄り、肩を掴んで揺さぶった。しかし反応はない。何かに意識を奪われているようだった。

「かわいそうな子だ」

声が響いた。どこから聞こえたのかわからない。森の奥からでも頭上からでもなく、まるで空気そのものが言葉を発しているかのようだった。ベイルは歯を食いしばりながら周囲を見渡し、声の主を探そうとする。

「私の呪いに抗えるなんて」

その声は愉快そうに歌うような調子だった。

「本当に特別なんだね、君は」

声の一つ一つが頭蓋の内側を叩きつけるように響く。こめかみの奥を鋭い痛みが突き抜けた。ベイルは言い返そうと口を開くが、声が出ない。

「静かに。すぐ終わるから」

赤い火花が地面を走った。音もなく奔る光は三つの円を描き、不気味に明滅する古代の紋章となる。円が完成すると地面が砕け、中から黒く腐敗した手が土を割って伸びた。何かが這い出てくる。

ベイルの握る剣が震えた。蘇った兵士たちが、血のように赤い空虚な眼でこちらを見返している。先ほど倒したはずの兵士たちと同じ、腐り果てた屍だった。体は動けと叫んでいるのに、恐怖が全身を縛りつけ、ただその地獄の光景を見つめるしかなかった。兵士たちはゆっくりと武器を構えた。

最初の一体が飛びかかってきた。錆び付いた短剣が乱暴に振り下ろされる。刃はわずかにそれ、ベイルの鼻梁をかすめた。鋭い痛みが走り、ベイルの意識が現実へと引き戻される。歯を食いしばり、反射的に反撃の斬りを返す。切れ味の鈍った一撃だったが、モンスターの脇腹に直撃し、そいつを大きく弾き飛ばした。

呼吸を整える暇もなく、二体目が槍を構えて突進してきた。ベイルは剣の腹で槍先を弾き、巧みに軌道をそらす。バランスを崩した敵の膝を斬り払い、地面に倒れると同時に胸へと剣を突き立てた。

普通の人間なら、それで終わっていたはずだった。しかし兵士はうめき声を漏らしながらも剣を両手で掴み、なおも動こうとする。異常な力で剣を引き止められ、ベイルは歯を食いしばって柄を引いた。

その間にも、三体目が巨大な弓を構えて狙いを定めていた。ベイルは引き抜こうと躍起になるが、足止めされたまま逃げられない。次の瞬間、鋭い痛みが左肩を貫いた。呻き声を上げ、ベイルの手から力が抜ける。その隙を逃さず、倒れていた兵士が片腕を伸ばし、ベイルの足を掴んだ。

全身を走る激痛に耐えながらも、ベイルは即座に反応した。自由なほうの足を持ち上げ、掴みかかる兵士の頭を踏みつける。渾身の力を込め、何度も、何度も地面に叩きつける。鈍く嫌な音が響き、頭蓋骨が砕け散ると、兵士の手から力が抜け、そのまま動かなくなった。

息をつく間もなく、弓兵が再び矢をつがえた。ベイルは呻きながらも足元の死体から剣を無理やり引き抜き、突進した。矢が放たれる。一本、また一本。しかしベイルは頭を下げ、体を捻り、剣で弾きながら距離を詰める。

ついに間合いに踏み込んだ瞬間、弓兵は弓を捨て、腰の短剣を抜いて無謀な突進を仕掛けてきた。まるで恐怖という概念を失ったかのような動きだった。ベイルは叫びながら剣を振り抜き、兵士の首めがけて叩きつけた。刃は的確に食い込み、首を一撃で跳ね飛ばす。

だが勢いのついた死体はそのまま前に倒れ込み、手にした短剣がベイルの顔面を斜めに裂いた。

熱い痛みと共に血が左目を濡らす。ベイルは苦鳴を上げ、震える手で顔の傷を押さえながら出血を止めようとする。そのまま肩に刺さった矢を掴み、歯を食いしばって無理やり引き抜いた。

「やるじゃないか、小さな兵士くん」

あの声が戻ってきた。歪んだ愉悦を含んだ声が脳に響く。

「でも、何か忘れていないかい?」

血の気が引くより先に、体が動いた。

「ウィル!」

ベイルは叫びながら駆けた。呪いに囚われたまま動かない弟の前に、一体の兵士が剣を構えて立っていた。耳の奥で笑い声が響く。世界が鈍くスローモーションに歪む中、兵士の腕がゆっくりと振り上がる。

間に合わなかった。

兵士の剣がウィルの胴を貫いた瞬間、ベイルは怒りの咆哮を上げ、兵士を蹴り飛ばし、その首をためらいなく斬り落とした。

ベイルは考えるより先に剣を手放し、ウィルの横へ崩れ落ちた。両手は血で濡れていたが、それでも弟を抱きしめることをやめなかった。涙が頬を伝い、土と血にまみれた顔に落ちる。

「…あ、に…」

ウィルはかすれる声でそう呟いた。呪いから解放された直後に、胸を刃で貫かれたのだ。

「ウィル…俺は…」

ベイルは言葉に詰まりながらも、弟を強く抱き寄せた。

「ここにいる。大丈夫だ、俺がいる…」

「まあ、なんて懐かしい光景なんだろうね」

あの声が再び響いた。今度は頭の中ではない。すぐ背後からだ。すぐ手が届く距離にいる。

振り返るべきだった。剣を構えるべきだった。だがベイルの視線は、痛みに震える弟から離れなかった。

「ウィル、今 助ける…我慢してくれ。少し痛むかもしれないけど、すぐに…」

「愚かだね」

その声が冷たく遮った。ベイルがウィルの胸に刺さった剣を抜こうと手を伸ばしたところだった。

「父親を救えなかった。仲間も守れなかった。故郷も失った。そして今度は弟。君は誰一人救えないよ。いい加減、現実を見たらどうだい?」

「そ、そんなこと…ない…」

ウィルが息を荒げながら反論する。

「兄さんは…ずっと…俺を守ってくれた…」

くぐもった笑いが空気を震わせた。愉快そうに、心底楽しそうに。

「まあ、光栄。君はなかなか骨のある子だね」

月光の下に広がっていた森が、突如として赤い光に染まった。兄弟を囲むように地面に無数の魔法陣が浮かび上がる。その数は十や二十ではない。百はくだらない。

「その心、折るのが楽しみだよ」

ベイルはゆっくりと立ち上がり、ウィルの頭にそっと手を置いた。血と痛みに染まった今も、ウィルは笑っていた。いつもの笑顔で。父が息絶えたときも、最期に見せたあの静かな笑みと同じだった。

その瞬間、ベイルの体から何かが弾けた。熱とも憤怒ともつかぬ力が全身を駆け巡る。血が沸騰するような怒りが燃え上がる。

ベイルは落ちた剣をつかみ、ゆっくりと構え直した。その目に、迷いは消えていた。

「この身、引き裂いてやる!」

一瞬のうちに、ベイルは消えた。

声は興味深げに唸り、地面の円から這い出ようとする亡者たちを見守っていた。だが、這い上がろうとする手は次々と斬り落とされ、頭が地面より顔をのぞかせれば二つに裂かれた。兵士が完全に這い出すことは稀で、もし出現したときには武器を構える前に首が胴から吹き飛ばされていた。

ウィルは秒ごとに衰弱していったが、その笑顔はますます広がっていった。「兄さんは…負けない…」

ベイルは姿を現し、声の主、仮面をつけた女術師の首元に刃を押し付けた。

「ほんとうに、特別みたいね」女はにやりと笑い、首筋を伝う血をぬぐった。

「これが最後の息だ」ベイルは冷たい声で言い放つ。

「そうかしら?」女は嘲るように返す。「君はどうやって弟を救うつもり?私がいなければ無理でしょ?」

ベイルはわずかに圧力を緩め、不安が胸に石のように沈むのを感じた。「嘘をついているんじゃないって、どうして分かるんだ?」と問い詰める。

「現実を見なさい。たとえ出血で死ななかったとしても、傷が化膿すれば確実に命を落とすわ。お医者さんじゃないでしょ」女は鼻で笑った。

ベイルは深く息を吐き、痛む胸の奥で弟の顔を確かめる。女の言うことは一理あった。逃走の際に薬草袋を置き去りにしてきたことを思い出すと、時間が足りないことを痛感した。

「ベイル…」ウィルが弱々しく、それでいて落ち着いた声で言った。「大丈夫だよ」こんな時に笑っていられる弟が信じられない。「兄さんが弟でよかった」

「そんなこと言うな!」ベイルは叫び返したが、すぐに声を押し殺して声色を和らげた。「助けるよ…いつもそうしてきただろ?」声が震えないように必死だったが、手は震え始めていた。

「時間がないよ、坊や」女は呟き、両手でベイルの刃をさらに首に押し付けた。「選びなさい、さもなくば私がやる」

「父さんと俺は…見守ってるよ…」ウィルは力尽きるように崩れ、笑みを絶やさなかった。

「…いや」ベイルは一瞬ためらい、歯を食いしばる。弟の言葉が胸に突き刺さると、堪えきれずに嗚咽が漏れた。恥と悲嘆に顔を背け、ゆっくりと剣を下ろす。

「やれ!」

文:Echo Seeker Lermy