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血と石

血と石

ウルフ家の崩壊

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血と石

ウルフ家の崩壊

「誰を“坊や”と呼んだ?」

静かな訓練場に、少年の怒った声が響きわたった。木剣と盾がぶつかる音が止まり、皆の視線が彼に集まる。

「僕はもうすぐ領主になるんだ、叔父上!」

14歳ほどの少年だったが、その姿には大人のような自信があった。


彼の前に立つのは、全身をよろいで包んだ大男。しわと古い傷に刻まれた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「エラン、言わせてやれ」

見物していた少年たちが声をあげる。


「そうだよエラン!新しい技を教えてくれるんだ!」

もう一人の少年がわくわくした声で続けると、エランは不満そうに木剣を握り直し、むすっとした顔で仲間のもとへ腰を下ろした。


「ありがとう、ウィル。そして…ベイル。」 騎士は静かに笑みを見せると、土に刺さった剣を引き抜き、籠手で刃をぬぐった。 その動作はゆるやかで、優雅ですらあったが、次の瞬間、剣先がエランの鼻先に突きつけられる。


「うわっ!」 エランがのけぞる。まわりの少年たちは息を止めた。

まるで時間が止まったかのようなその一瞬。

剣の速さ、正確さ、そして静けさに、誰もがただ見とれていた。


「まあまあ、ウルフ卿。甥っ子にそんなことをするなんて。」

中庭の向こうから、なめらかで甘い声が響いた。

「それも、次期後継者に対してですよ。」

みんながその声の主へと目を向ける。そこに立っていたのは、上品な立ち振る舞いと、完璧に作られた笑みを浮かべた細身の女性、ロズリン夫人だった。


「おっと、これは失礼。ロズリン卿夫人。」

ウルフ卿は軽く皮肉を込めて頭を下げ、口の端にいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「そんな顔しないでください、義姉上。」とでも言いたげに。


その瞬間、ベイルとウィルが椅子から飛び上がり、転びそうになりながらも大はしゃぎで伯母のもとへ駆け寄る。

一方、エランは、自分の母の前で恥をかいたショックから、席に固まったままだった。


「ウルフ卿。主人があなたを探していましたよ。」

ロズリンが言葉を続ける。その声はやわらかいが、目は真剣だった。

「少し切迫した様子でした。…待たせない方がよろしいのでは?」


騎士は背筋を伸ばし、静かにうなずく。

「承知しました。では授業はまた明日だな。」

そう言って訓練生たちに向き直ると、鞘に剣をおさめ、いつものあたたかい笑顔に戻る。


「それまで、お前たちは模擬戦でもしていろ。このじいさんの話を聞くより、ずっと楽しいだろう?」三人の少年はそろって不満そうに口をとがらせたが、反論はしなかった。

ウルフ卿は短くうなずき、まっすぐ玉座の間へと歩き出した。


「夕食のときに、あなたたちの“戦いぶり”を聞かせてちょうだいね、小さな兵士さんたち。」 屋敷の女主人、ロズリン夫人は優しくウィルの髪をなでながら、腰を上げた。

エランも立ち上がり、母に丁寧に頭を下げようとしたが、目が合った瞬間、その笑顔は彼に向けられたものではないと気づく。温かくやさしい眼差しのかわりに、そこにあったのは冷たく、遠い光。


「お前なら、この二人に“本物”の戦い方を見せられるわよね? 息子よ。」

その言葉に、エランの背筋がぞくりと震えた。

彼は固くうなずき、母が騎士のあとを追って訓練場を去るのを見送った。


残された三人の少年。静かな訓練場に、ほんのわずかな風の音だけが響く。

エランが兄弟の方を振り向こうとしたとき、胸当てのすき間に指先がちょんと当たった。


「うわっ、おまえら!」エランが叫び、木剣を構えてくるりと振り向く。

「だって、騎士さまが“模擬戦をしろ”って言ってたろ?」

ベイルがにやりと笑い、ウィルは兄の後ろからくすくすと笑った。


不意打ちをくらったエランだったが、その表情には自然と笑みが戻る。

「よーし、覚悟しろ!」

勢いよく声を上げ、彼は仲間たちに突っ込んだ。木剣と木剣がぶつかり、乾いた音が響き渡る。


空は深い蒼から、やがて燃えるような琥珀色へと変わっていった。

夕日が沈みゆく中、訓練場には若き戦士たちの笑い声と叫びが響きわたり、まるで世界がその一瞬だけ静止したかのようだった。


だがその穏やかな時間は、そう長くは続かなかった。


地面を踏み鳴らす重い足音が響いた。鎧がぶつかり合う金属音が訓練場に広がり、

衛兵たちが慌ただしく端に整列していく。

遠くにいても、少年たちはその緊張と不安を肌で感じ取った。


「なあ、エラン?」ベンチにいたウィルが声をかける。

集まっていく兵士たちを細めた目で見つめながら言った。

「もう夜の巡回の時間なのか?」


「え?」エランは木剣を振る手を止め、反射的にベイルの一撃を受け流した。

列をなす兵士たちに目を向け、眉をひそめる。

「いや、そんなはずない。少なくとも聞いてないけど。」


「でも、なんか…みんな怖がってるように見えない?」

ウィルが少し震える声で言った。


「気にしすぎだよ、ウィル。」ベイルが笑い、剣を下ろして弟の方へ歩み寄る。

「そんなに心配なら、直接聞いてみろよ。」


「じゃあ、聞いてくるよ!」

ウィルはむっとしたように言い返し、小さな胸を張って勇ましく見せようとした。

彼はベンチから勢いよく飛び降り、できる限り堂々とした足取りで兵士たちの列へと歩いていく。


見守る訓練生たちが息をのむ中、ウィルは首を伸ばして声をかけた。

だが返ってきたのは、鋭く怒鳴るような声と、指揮官の手甲で荒っぽく追い払われる仕草だった。


恥ずかしさをこらえながら、ウィルは小走りで戻ってきた。

唇を震わせながら、うつむいたまま報告する。

「な、なんでもないって…言ってた。」両手をそっと組み合わせ、不安そうに指をいじる。「でも “今すぐ部屋に戻れ”って…。」


ベイルの眉がひそめられ、先ほどまでの笑みが消える。

「なあ、エラン。変じゃないか?」彼は再び兵士たちを見やりながら言った。

動きは急ぎ足で、槍を握る手は固く震えているようにも見えた。

「ついて行ってみよう。」


「つ、ついて行く!?」ウィルが思わず叫ぶ。

「そんなことしたら…ば、ばれたら父さんに…」


「いや、いい考えだ。」エランが口を挟んだ。その声には妙な力強さがあった。

「俺たちだって訓練を受けてる兵士だ。それに、いつ、なぜ家臣たちが召集されるのか、それを知るのも、次期領主の務めだろう。」


ベイルはため息をつき、いとこの勇ましさに目を細めた。

「……決まりだな。」

そう言うと、少し間を置いて弟の方を見た。

「ウィル、戻りたいなら戻っていいぞ。」


怯えたように見えたウィルだったが、震える手で木剣の柄を握りしめた。

「い、いや…行くよ。ぼくも。」


その瞬間、三人の少年たちは目を合わせた。

恐怖と冒険心が入り混じったまなざし。そして静かに訓練場の端へと身を滑らせた。

鎧の音と兵士たちの足音が遠ざかる中、彼らは沈みゆく夕日を背に、

胸の高鳴りのまま、闇へと足を踏み入れた。


緊張に包まれた行進は、玉座の間の扉の前で止まった。

その先頭に立つのは、部下を率いる隊長だった。

少年たちは数歩離れた場所で、冷たい石壁に背を押しつけながら身を潜める。


扉の取っ手に隊長の手がかかった瞬間、空気が変わった。

重たい金属の軋む音が静寂を切り裂き、ゆっくりと、慎重に扉が開いていく。

薄暗い光が床に細い筋を描いた。


「なんてことだ…」

誰かのかすれた声が、耳に届く距離で震えた。

続けてざわめきと息をのむ音が広がり、やがて扉が開ききると、そこに広がる光景を見た兵士たちは息を呑んだ。


ウィルの顔から血の気が引き、兄の手首をぎゅっと握りしめた。

ベイルは背伸びして、必死に人の隙間から覗き込もうとする。

だが、エランは別の行動をとった。


「家臣たちよ!」

少年は衝動的に声を上げ、光の中へと踏み出した。

「この集まりは…一体何のつもりだ!」


兵士たちが一斉に振り向く。

一番近くにいた男が驚き、落ち着かない様子で言葉を詰まらせた。

「わ、若君!? なぜここに…! 本来なら…」


「私の息子がここに!?」鋭く、張り詰めた声が響いた。

エランはその声をすぐに聞き分けた。母、ロズリンの声だ。

少年は凍りついたように立ちすくみ、次の瞬間、自分がどれほど大きな過ちを犯したのかを悟った。


「見るな!」

群衆をかき分けて走り寄る母の姿は、いつもの落ち着いた貴婦人ではなかった。

顔には涙の跡が刻まれ、目は悲嘆に赤く染まっている。

その衣には…血の染みがあった。


もう、遅かった。

兵士たちが道を開け、

その先に広がる光景が、エランの脳裏に焼きついた。


床に広がる黒々とした血の池。

玉座にもたれかかる父の姿。

そして、その隣に立つ叔父の手に握られた、血に染まった剣。


世界が暗く沈んでいく。足元が崩れ、視界が揺れる。

胃の奥がねじれ、膝が砕けた。

エランは地に崩れ落ち、ただ天井を見上げながら、自分の世界が音を立てて崩れていくのを感じていた。


エランの仲間たちはすぐに彼のもとへ駆け寄ったが、

その目は混乱の中心から離せなかった。


「に、兄さん…」ウィルが震える声でつぶやく。

目を見開き、涙が滲む。「あれって…あれは…」


「父上だ!」ベイルが叫んだ。


ウィルがエランのそばに崩れ落ちるのをよそに、

ベイルは突き動かされるように立ち上がり、群衆の中へ飛び込んだ。


大理石の床を駆け抜ける足音が玉座の間に響き渡り、

少年の荒い息遣いだけがその場の静寂を破っていた。

「父上…!」


玉座の前には、膝をつくウルフ卿の姿があった。

彼の剣はアシュラー卿の胸に深く突き刺さり、

同時に卿の剣もまた、ウルフ卿の脇腹を貫いていた。


二人の体は血にまみれ、赤い液が鎧の隙間を伝い、階段を染めていく。

アシュラー卿の目は虚ろで、すでに息絶えていた。


「ベ…ベイル…」

かすれた声が聞こえた。その弱々しさの中に、間違えようのない響きがあった。


ベイルはすぐに父の顔を見つめた。

致命傷に苦しみながらも、ウルフ卿は息子に向けて優しく、穏やかな微笑みを見せた。


「父上! しゃべらないでください! すぐに治療を呼びます! だから…」


「息子よ」

その囁きがベイルの焦りを切り裂いた。切実で、重い声だった。

「ウィルを…守れ。あの子には…お前が必要だ」


ベイルの頬を涙が伝う。彼は父の腕を握りしめ、震える声で名を呼び続けた。


「お前たちは…強くなる」ウルフ卿はかすれた息を吐きながら言った。

「お前たちは…私の息子だ…」

その言葉のあと、咳き込み、血が彼の唇を染めた。


ベイルは口を開いたが、声にならなかった。喉が詰まり、何も言えない。


「決して…」

ウルフ卿は最後の力を振り絞り、かすれた息で言葉を続けた。

「信じるな…」


鈍い音を立てて、ウルフ卿の体が崩れ落ちた。もう動かなかった。


ベイルはその場に膝をついたまま、血にまみれた手で父の体を支えた。

そして、ただ泣いた。世界が崩れ落ちる音を聞きながら。


時間が止まったような、息が詰まるほど長い静寂のあと、

ベイルはようやく近づいてくる足音に気づいた。

硬いヒールが大理石を叩く鋭い音。彼には、その足音が誰のものかすぐに分かった。


「裏切り者…」その言葉が重たい空気を切り裂いた。

「ウルフ家は…反逆者だ!」


ベイルの心臓が大きく跳ねた。

顔を上げると、そこには怒りに燃えるロズリン夫人の姿があった。

彼女の手にはエランの手首が握られており、少年は引きずられるようにして前へ押し出された。


「エラン…」ロズリンは低く唸るように名を呼び、その手の力をさらに強めた。

エランが悲鳴を上げる。

「いえ…グレイストーン卿、かしら」


少年の顔は恐怖に歪み、ベイルと同じように青ざめていた。

父の亡骸を前にしたまま、ベイルの膝は震え、息は荒く、

それでも必死に立ち上がって二人に向き合った。


「処刑なさい…この者たちを」


その言葉が落ちた瞬間、

ベイルの思考は真っ白になった。

理解が追いつかず、頭の中を混乱と恐怖が駆け巡る。

死刑…? 何を言っているんだ…?


「で、でも…母上…」

エラン・グレイストーンの声が震えた。

涙混じりの言葉が、玉座の間に響いた。


重い足音が響き、近づいてくる。

やがて、隊長が姿を現した。

鎧をまとった男は玉座へ進み出ると、

亡きアシュラー卿の手から剣を静かに取り外した。


そして振り返り、グレイストーンの前で片膝をつき、

深く頭を下げながら剣を差し出した。


「我が君…」


グレイストーンはその剣をまるで毒蛇でも見るように見つめた。

その行為の意味と重みに、少年の顔は恐怖に染まっていく。


「彼らはあなたの父を、冷血に殺したのよ!」

ロズリン夫人の叫びが、玉座の間に響き渡る。

その言葉がグレイストーンを現実へ引き戻した。


彼は怒りに燃える母と、血に染まった父、怯える従兄弟ベイル、そして輝く刃のあいだで視線をさまよわせた。


心臓が激しく脈打つ中、彼は震える手を伸ばし、剣の冷たい革の柄に指先を触れさせた。

その瞬間、時間が止まったように感じた。


「エラン!」扉の方からウィルの声が響いた。

だが、すぐに門番たちの手で押さえつけられる。

幼い少年は必死にもがいたが、ただ見守ることしかできなかった。


グレイストーンはその騒ぎに顔を向け、

捕らえられるウィルの姿に胸を締めつけられた。

助けたい気持ちは山ほどあった。

だが、彼にできたのは手の中の剣を見つめることだけだった。


父が何度も振るってきたその剣。

今は、かつてないほど重く恐ろしく見えた。


磨かれた刃に、ベイルの怯えた顔が映り込む。

その目が合った瞬間、ロズリン夫人の言葉がグレイストーンの頭の中を駆け巡った。

父を裏切ったのは本当に叔父なのか。ウルフ家がそんな悪行を働くはずがあるのか。


彼はもう一度、倒れた父の姿を見た。

怒りが、燃えるように胸の奥から湧き上がってきた。

ウルフ家が父を奪い、すべてを壊したのだと。


グレイストーンは剣を静かに持ち上げた。

彼は今や新たな領主。裁きを下すのは自分の役目だ。


だが…目の前の少年を見た瞬間、その手が止まった。

陰謀を企てた裏切り者の姿ではなく、幼い頃から共に訓練をした笑顔の友の顔がそこにあった。彼らが罪人のはずがない。無実であるはずだ。


「さあ、やりなさい!」ロズリン夫人の声が剣より鋭く響く。

「民を守るのよ!」


「承知しました」

グレイストーンの声は低く、悲しみに満ちていた。

剣がわずかに動くと、ベイルは反射的に身をすくめた。


その怯えた瞳を見て、グレイストーンは悟った。

ウルフ家は罪など犯していない。

だが、母の怒りを真正面から拒むこともできなかった。


「ウルフ家は…」

新たな領主は剣を下ろし、静かに宣言した。

「本日をもって、追放とする」



文:Echo Seeker Lermy